|
|
|||||||||||||||||||||||||
![]() |
|||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||
| 日本が21世紀のあるべき姿を見出せずにのたうちまわっている。国家は中長期ビジョンを国民に提示できず、銀行は不良債権問題で未だに半身不随、民間企業はこれといった革新的なイノベーションを起こせず、国民は、当てにできそうもない老後の年金に不安で一杯だ。
お隣の中国は、日本の十分の一という低賃金で日本の製造品目を、ブラックホールのように貪欲に吸い込んでいる。小泉内閣の支持率はまだ高いが、他と比べればまだましというだけのことだろう。 株価が8000円台を割り込んだのも、日本が世界の投資家にとっていかに魅力のない国になりはてたかという証左にほかならない。これといって資源のないわが国が唯一たよりにできるのは、優秀な人的資源だけだ。 ところが、最近、公立中学の教育カリキュラムを見て愕然とした。昔から、「読み・書き・そろばん」というように、言語学習(国語・英語)と数理的思考(数学)は、教育の根本基盤であるが、基礎科目の時間(たとえば、英語は週3時間)が極めて少なくなっている。 その結果、分数の割り算ができない大学生がうまれ、大学での英語教育も、高校の文法書から再学習しなければならない。本家の米国が重大な欠陥に気づきとっくに放棄した、いわゆる「ゆとり教育」に拘泥している日本人の学力低下は、もはや放置できない危機的段階にあるとさえ言えよう。 今回は、こうした教育問題の重要性をかんがみ、かって内村鑑三がその著「代表的日本人」の1人に上杉鷹山(ようざん)をとりあげて、この鷹山の師こそ「江戸時代最大の教育者」であると激賞した「細井平洲」を紹介してみたい。 江戸時代の藩の財政再建で有名な「上杉鷹山」を知る人はあっても、その師「細井平洲」を知る人は少ない。 だが、平洲の著作の1つ、「嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)」は、吉田松陰が「この書は『経世済民の流れ』であって、読めば読むほど必ず力量をます」と絶賛し、西郷隆盛に至っては「政治の道は、この1書に尽きる」とまで言い切ったほどの良書なのである。 特に、教育者としての平洲を凄いと思うのは、第1級の学者として、大名クラスを相手に次元の高い話しができるばかりでなく、一般大衆の中にみずから入って、町人や農夫にもわかる言葉でかれらを訓育したことだ。 本書、「嚶鳴館遺草」の内容にふれる前に、その生涯から話しを始めよう。 1744(延享元)年、名古屋に帰ると、中西淡淵の叢桂社に入門、生涯の師と出会うことができた。なんのことはない、灯台下暗しであった。18才で、師淡淵の勧めで長崎に赴いた。この地で、小河仲栗・飛鳥子静という生涯の友を得、中国語・詩文・書画に熟達した。 2年後、母が重体の知らせを受け急ぎ帰郷するが死に目に会えず、平洲自身病に伏した。窮乏のため、長崎の子静に借財を申し込んだが「石」と書いた包み箱に100両が送られてきた。返済無用という意味であった。 1751(宝暦元)年、師、淡淵の招きで江戸に出た。24才であった。翌年、淡淵が44才で急逝した。平洲の嘆きは大きかったが、淡淵の門下生は平洲の下に移り、1753年神田柳原に、私塾「嚶鳴館」(おうめいかん)を開く。 石村氏の娘を娶り、父も江戸にきたが、平洲親子の細井氏と妻の石村氏、小河氏と妻の桑野氏、飛鳥氏の3家5姓の9名が同居、その仲の良さが大きな評判となった。1760年、江戸の大火で家財・書物のすべてを失う。浜町の山伏井戸(今の明治座の近く)に転居する。平洲の学者としての名声は日々に高くなっていったが、学ぶ機会のない庶民を相手に、両国橋のたもとで辻講釈もした。 1764(明和元)年、37才の時、請われて14才の上杉治憲、後の鷹山公の師となり桜田邸で講義を開始。1967年、治憲は、19才で出羽米沢藩の藩主となり国入りした。当時の米沢藩は、謙信公の頃より領地が大幅に削られていたが、多くの家臣団はそのまま残り、財政は困窮の極に達していた。 治憲公は、平洲の教えに従い、産業振興・人材育成を積極的に実施した。1771(明和8)年、平洲44歳の時、第1回の米沢訪問を行った。1773(安永2)年、米沢藩で重臣たちによる7家騒動が起こるも、治憲公の英断で鎮圧された。1776(安永5)年、米沢の興譲館(こうじょうかん)が落成を機に、平洲は第2回米沢訪問を行い、学則を定めた。翌年まで滞在し領内各地で領民に講和を行った。 1780(安永9)年、平洲53歳の時、名古屋尾張藩より、御儒者として召される。翌年、尾張に行き、藩主・徳川宗睦(むねちか)公に講義を行った。尾張・美濃の各地を巡回し講和を実施し、領内で模範となるような人々を表彰した。 1783(天明3)年、平洲、56歳の時、尾張藩校、明倫堂竣工、学館総裁となり、藩士の教育にあたった。廻村講和は引き続き行われ1,000人以上の領民が集まることもあったという。 廻村講和は、聴衆の人情の機微をとらえたもので、そのすぐれた話術とともに領民に大きな感動を呼び起こした。聴衆のなかには、なにを勘違いしたのか、感激のあまりお賽銭を投げた者もいたという。 尾張藩より、知行400石を賜る。人吉藩主、相良長寛(さがらながひろ)は、平洲の指導により、藩校、習教館を設立、初代館長には、平洲の弟子の東白髪が就任、領地を巡回して平洲の教えを実践した。 1796(寛政8)年、平洲69才、第3回米沢訪問。藩主、上杉治憲(鷹山)公(46才)は、郊外関根の羽黒堂まで平洲を出迎え(現在、敬師の里としてその名を残している)、普門院に案内して歓談した。 1797(寛政9)年、平洲70才の祝宴が開かれた。鷹山公はじめ、東西の名士大家からお祝いの祝辞が寄せられた。1799(寛政11)年、徳川宗睦が没す。平洲、「わが事おわれり」と嘆息し、1801(享和元)年6月29日、江戸・市ヶ谷の自宅で没した。享年74才。江戸浅草、浄土宗天嶽院に葬られた。 1808(文化5)年、上杉鷹山公、「嚶鳴館遺稿」10巻を刊行。1835(天保6)年門人・西条藩士の上田雄次郎(子文)が原本をまとめた「嚶鳴館遺草」6巻が刊行された。 「嚶鳴館遺草」は、「野芹上・中・下」・「上は民の表」・「もりかがみ」・「管子牧民国字解」・「つらつらぶみ」・「花木の花」の全6巻からなるが、すべては解説できないので、例によって、私がこれはと思うところをとりあげてみよう。現代語訳は、(文献2)の篠田氏の著書から引用させていただいた。 ◇ 第3巻 もりかがみ (原文の現代語訳) 「学問というと、朝から晩まで、机の上の書物を開き、眼を皿のようにして、読むだけという方法ではいけない。 読んだ書物の教えの大事なところは、1行でも2行でも、暗誦して、思いを巡らし、心の中で、その言葉の意味は、「こうしたこと、ああしたこと」と、文言の真意を理解して、それに基づいて日々の行動を実践することだ。・・・書物を読み、その書に書いてあるところを反芻(はんすう)して、実践することが、本当の学問である。」 (筆者コメント) 「本に読まれる」という言葉があるように、新刊書を次々読破して最新知識を知っても、それを消化吸収して仕事や日常生活の中で実際に役立てなければ、単なる物知りということになろう。平洲は読む時間の何倍かの時間を、読んだ内容を実践にどう役立てたらいいかという瞑想に費やしたという。「読まれる」というのでなく、「読みこなす」という姿勢で厳選した良書を相手に是非このような読み方をしたいものだ。 ◇ 第5巻 つらつらぶみ (原文の現代語訳) 「人を教えるうえでの心得としては、菊好きの人が菊を作るようにしてはならないもので、百姓の菜・大根を作るように心得なければならない。菊好きの人が菊を作るというのは、「花、形が見事に揃うよう、立派な菊の花ばかりを咲かせよう」として、多くの枝をもぎ取り、延びすぎたところは、切り揃え、その人の好みの通りに仕立て、咲かない花は、花壇の中に1本もないようにするもの。 百姓の菜・大根作りというものは、1本1本も大事にして、畑の中には、上手に育ったもの、そうでないもの、へぼなものもあったりして、大きさも大小、さまざまに不揃いなものですが、それぞれを大事に育て、良く出来たもの、そうでないものも、食用の用に立つように育てる。 この2つ「躬行の美・心の広さ」の大切さをわきまえて、世話をすることのできる人が師としての条件である。 人の才能というものは、すべて同じではないということを理解せず、自分の考え通りに育てることができるというような一方的で偏屈な考え方では、教えを受ける側も大変迷惑なものだ。 知識に優れた者、そうでない者、才能のある者、ない者、それ相応に世話をして、結局は、心良き人になれば、なにか用に立つことはあるものと考える・・・。」 (筆者コメント) 平洲はこのように、人材の育成にあたって、画一主義を排し、多様性を重視した。戦後の価値崩壊があちこちで起こっているなかで、私はこの「ちがうから、いいんじゃないか」という思想の切り換えは日本再生の切り札的発想になると直感している。 平洲の誕生の地、東海市では、毎年5月、「平洲祭」が行われ、1974(昭和49)年には、「平洲記念館」が建てられた。また、毎年、「平洲サミット」が開催され、平洲ゆかりの熊本県人吉市・山形県米沢市・群馬県太田市・長野県木曽福島町・山口県防府市・和歌山県和歌山市・愛知県東海市の市長・町長が一堂に会し、平洲の教えを現代に生かす話し合いが行われていることをお伝えしたい。
(文献) 1.「嚶鳴館遺草」皆川英哉 1991(私家版) 著者は、元「平洲記念館」館長 2.「嚶鳴館遺草」篠田竹邑 1999 文芸社 ¥1,700 3.「平洲全集」高瀬代次郎 1921 稀こう本で、あっても値段が高価。 4.「東海市史・資料編・第3巻」1979 「平洲全集」が収録されている。 5.「嚶鳴館遺草」小西重直 1944 絶版 初版5,000部と奥付にある。 6.「細井平洲・(附)中西淡淵」鬼頭有一 明徳出版社 1977 ¥1,700 7.「上杉鷹山と細井平洲」PHP文庫 童門冬二 ¥476 8.「勇気―細井平洲・上杉鷹山」鈴村進 黙出版 上・下 2巻 ¥3,000 9.内村鑑三「代表的日本人」岩波文庫 「平洲記念館」のホーム・アドレスは http://www.city.tokai.aichi.jp/~kyouiku/syakyou/kinenkan/kinenkan.htm |
|||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||
|
竹下和男
|
|||||||||||||||||||||||||
![]() |
|||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||
|