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8出口光の「天命と経営」21号 |
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「番外編:サムライ時間に生きる」 |
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| こんにちは、お久しぶりです。 先日、私の知り合いから、鉢植えの「月下美人」をもらった。それには、三つのつぼみがついていた。 月下美人は、たった一回、数時間だけ、しかも深夜に咲く花だ。玄関に置いていたのだが、一つは気づいたときは、すでに萎れていた。もう二つのつぼみは、夜の11時半くらいに咲いた。今度は見ることが出来た。 桜の花よりもはるかに寿命が短く、しかも人知れず咲いている花があった。名前しか知らなかった花の、あまりのはかなさに、そして美しさに心を奪われた。 あなたは、自分の「限られた」人生の中で、事業を通して何を成し遂げることができるのだろうか?あなたにとっての成功とは何だろうか? 「天命は、私たちの過去の人生の中に、すでに存在していた」ことを、人生の統合を通して掴んできた。それは、「動詞」で顕(あらわ)せるのだ。 過去の人生の中に、「人を育てる」という一貫性を見出してきた人にとって、「人を育てる」という天命は、永久に終わることはない。なぜなら人は無限にいるからだ。 「変革する」「工夫する」「守る」「極める」「助ける」など、天命に関係する行動には、終わりはない。 したがって、達成という視点からは、成功も失敗もないことになる。ただ、天命をやり続けることがあるだけだ。つまり、天命は、方向性であって、終わりはないのだ。 ところが、私たちの命は有限であり、何をやるにしても、有限の時間しか与えられていない。それに直面したとき、私たちは、「天命を、どこまで形にするのか?」と自分自身に問うことになる。 つまり、「今生(こんじょう)で、どこまでやるのか」ということがポイントになるのだ。 それを示したのが図1だ。 |
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| そこで、私たちは、対象を絞り、手段を絞ることになる。「人を育てる」ことに対して「その対象は子供なのか、大人なのか?」また「大人でも、技術者なのかマネージャーなのか」はたまた、「育てる人を育てるのか」等を決めなければならない。 手段も限定されることになる。それは、人材派遣の事業を通してか、あるいは、製造業か、飲食店の経営か、スポーツ・マネジメント会社、あるいは介護事業なのか、などを決めなければならない。全てをやるわけにはいかないからだ。 図2を見てみよう。
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対象と手段を決めることで、具体的に今生で、天命をどう表現するのかという「天職」の分野が現れてくる。あなたには時間が有限であるがゆえに、対象と手段を絞る必要があるのだ。 あなたの霊性と手段を磨くためには、多くの時間とお金がかかる。り、その時間の集積が今の天職ということになる。 ここに、人間の人生に区切りがある意味がある。 しかし、現代においてこの人生の有限さは、益々遠い存在になっている。あなたは、今、歯が痛くなっても、まず死ぬとは思わないだろう。ただ、歯科医院に行けばよいと考える。咳がでても、熱がでても、医者に行けばよい。 しかし、抗生物質がない昔は、歯痛であっても、そこから菌が入り、死に至る可能性があった。つまり、ただの歯痛であっても、自分の命の終わりに直面するに十分な機会だった。 昔は、「死」は人間にとって、もっと日常的なものであり、生きている間に何をするのかは、ずっと大きな課題だった。 しかし今は、実際にはいつそれが訪れるかもしれないのに、人の意識の上では、「死」は遠い存在になってしまった。よく言われるのは、倒産、投獄、闘病の三「とう」のどれかを経験しなければ、人は人生に「本気」で関わらないと。 ドイツの哲人ハイデガーは、「人間は自分の意志で生まれてきたわけでもない世界に、投げ込まれている存在である」と指摘した。 人間は否応なく、この世界を生き、そしてこの世に別れを告げなければならない。人は死に直面したときに、本来的な自分が現れる、とも言っている。 自分はこの世界に、自分の意志とは関係なく投げ込まれており、ここから決して逃げられないことを、自覚せざるをえない。 しかも、その投げ込まれた世界では、有限の時間しか与えられていないのだ。この有限さに積極的な意味を持たせることしか、私たちにはできない。 サムライ時間 サムライは、いつでも死ねると生きていた。「武士道というは、死ぬことと見つけたり」というのは、佐賀鍋島藩士、山本常朝の「葉隠」にある言葉だ。 私たちは人生の有限さを認識することで、自分を捉えなおし、その生を豊かに鮮やかに生きる新たな生き方を選択することができる。 私は、このような時間の使い方を、「サムライ時間」に生きると呼んでいる。 経営者は、一般の人よりも、死を意識する環境にある。それは、あなたは、常に、社員やその家族の生活を背負い、倒産という「社会的な死」に直面しているからだ。 家族や社員のことを考え、高額の生命保険に入っている中小企業の経営者も、少なくない。 サムライ時間に生きることで、「天命と経営」であなたと共に探求してきた「人生の統合」が現実味を帯びてくる。 つまり、私たちはすでに天命の中に生きていて、その中には、あなたがやってきた一貫したものを見出すことができる。 それが、あなたの人生を貫く天命であり、その延長線上に未来もあるのだ。 本業に絞る 150年続いた漬物屋の息子がいる。大学は美術大学でデザインを専攻した。しばらく銀行に勤め、家業に入った。本業で儲かっているのは、業務用の商品だ。 しかし、業務用の商品だから、パッケージに、デザインは関係ないと、飲食店をやったり、きれいなパッケージの消費者用の商品を出したり、周辺の仕事ばかりやって、収益源である業務用パッケージの仕事を本気でやってこなかった。 彼は悩んでいた。「自分は、すき好んでこの仕事をやったのではない。それは150年も続いた家業を絶やしてはいけないからだ。第一、私は大学でデザインや映画製作をやっていた。これをなんとか生かそうと思っているが、従業員は私の道楽だと思っている。こんな自分だと社員もかわいそうだと思うのだ。やるのかやめるのか、いずれ決めなければならないと思っている」と話していた。 自分の投げ込まれた世界に、自分の意志で自分を投げ込むことができなかったのだ。 天命を探求する過程で、しだいに、本気で自分の人生の統合を行うようになっていった。図2をもう一度見てほしい。人生の統合には、「霊」と「体」の統合がある。「霊」は、150年の伝統であり、彼の「人を楽しませる」との融合であり、「体」は、本業の核であり、彼が人生で取り組んできたデザインを中心とする技術だ。 彼は、漬物業の核にデザインを活かすことを考えた。デザインを通して、人に「楽しんでもらう」ことが、自分の人生でやってきたことだと。 彼は、本気で、本業の核である業務用の商品に的を絞り、事業に取り組み始めた。業務用の商品だから、デザインやパッケージは関係ないと考えていた、その商品群にも和のデザインをほどこし、パッケージに工夫を加えた。 味気のない業務用の商品に、みずみずしいデザインが顕れたのだ。その商品は、取引先の従業員に評判がよかった。彼は、自分のやってきたことを活かして、本業に取り組んだのだ。 これは、代々続く本業に、自分の時間の集積である「体」を統合したのだ。 天命はすでに、自分の過去の人生の中にある。だから、自分のやるべきことを探す必要はない。自分には人生を貫くものがあるからだ。 それを掴んだとき、根本的な経営判断に迷いがなくなる。そうなれば、まっすぐ道を進むことができる。 経営者であるあなたは、サムライ時間に生きている。 これは決してマイナスなことではない。積極的に自分の「生」を問い直し、自分がやるべきことに、まい進するという究極の自由が、あなたにはあるのだ。 次回は、サムライ時間に生きるあなたと資本の関係を共に探求しよう。
出口 光 |
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※出口光氏に質問のある方は、なんでも結構ですので下記にお寄せください。
SAKAGAMI@jmca.net |
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