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8出口光の「天命と経営」20号 |
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最終回 「総集編:心と天命の関係は進化する」 |
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| 経営者には、どんなに環境が変化しようとも決して揺るがない「何か」がある。あなたは、すでに、そんな感覚を自分の中に感じてきているのではないか。その「何か」が人を突き動かし、人の世界を創っている可能性が見え隠れしている。その何かを、いま、私たちは「天命」と呼んでいる。 天命の領域に直面し志すことで、次第に自分の心や感情に振り回されない不動の軸を持つようになる。これは、心が邪魔な存在であると言っているのではない。ただ、なぜ心や社会構造が天命を封じ込めるように動くのだろうか。 天命と経営を締めくくるために、「天命」とこの「心」との関係を探求することで、筆を置きたい。この関係には、2つの種類がある。 心が主で魂がそれに従う −「心主魂従」(しんしゅこんじゅう) 心と魂の関係のひとつは、「心」が主であり、天命の存する「魂」の分野は従であるという関係だ。つまり、主に「心」が「魂」に影響を与える「心主魂従」という状態だ。心は絶えず揺れ動いているので、魂の分野である天命は、心の揺れによってかき乱されることになる。 しかし完全に封印することは難しく、嘆きや怒り、不安として、心に染み出てくる。「人を育てることができない」と人生で嘆き続けてきた人は、実は、人生で「育てる」ことを追い求めてきたのであり、天命は、「人を育てる」ことに密接に関係している。そのハードルの高さゆえに、嘆きが出てくるのだ。 これが、天命が封じ込められている状態だ。ほとんどの人がこの状態にあり、したがって、18話で見たように、お互いがお互いの特徴を批判することで封印し合い、さらに、天命から発する嘆きをマイナス思考として否定する社会構造ができあがっていると私は見ている。 魂が主で心が従う −魂主心従(こんしゅしんじゅう) もうひとつの関係は、「魂」が主であり、「心」がそれに従うという関係で、「魂」が「心」の発現に強い影響を与える「魂主心従」という状態だ。魂の分野である天命の軸は揺らがないから、心の振幅も、その範囲内に限定される。 確かに、この関係だと、心は天命を機軸に動くようになり、安定して見えるはずだ。こういう状態を、一般に、不動の“心“を持った人と描写されてきたのかもしれない。 この魂主心従の経営を目指すことが、天命を経営に生かすことになる。 経営者が魂主心従であるためには、自分の過去の人生を統合的に観ることで、自分の人生を貫く揺るぎない天命を見出し、それに志すことだ。そこから、あなたの運命は展開し、好転していくだろう。 私はこれまで数千人の人たちと関わり、人生を統合していく過程に立ち会ってきた結果から、私たちの心が天命と関わる仕方を、四段階で進化するように捉えるに至った。一見して邪魔のようにも思える心の状態が、実は、人がどう天命と関わっているのかを教えてくれている。 第一段階 「逃げる」 まず、第一段階は、「逃げる」だ。 天命に直面すると嘆きが出てくる。しかも、現代社会では嘆き自体がマイナス思考だとして排斥される。したがって、嘆きを避けることで、それが指し示す天命の領域からますます遠ざかる。こうして、天命から逃げることになるのだ。 苦しいことや嘆いていることから目を背け、わくわく楽しいことを追求しようとする。「イヤイヤやるようなことは、天命から来る天職であるはずがない。人生は、楽しいことをするべきだ。人生の成功者が皆、言っているではないか」というのは「逃げる」の典型例だ。 ワクワク楽しいことを常に追い求めることで、天命を指し示す嘆きや怒り、不安から顔を背け、あたかも人生を楽しんでいるかのように、装っているのだ。 さらに、いくつかの逃げ方の実例を挙げてみよう。 ある人は、「天命などと、軽々しく口に出すべきものではない。一生かけて探すものだから、そのようなことを扱うこと自体おかしい。天命などと大上段に構えないで、毎日やるべきことを一つ一つ誠実にやる。一日ひとつでも善をすることのほうが、大切に思える」と言うのだ。この巧妙な論理で、天命と直面することを避けることができるのだ。 また、ある人は、「私はずっと人の役に立ちたいと思ってきたが、私の人生で、それは、できてこなかった。だが、私は嘆いてはいない。心は静かなものだ。諦観とも言える心境だ」と、悟りを開いたようなことを言う。つまり、”嘆き“ではないからという理由で、自分に天命があることを認めたくないのだ。 もっと積極的に逃げる方法は、「今世では、自分のやりたいことは諦める。利益追求を極めて、税金を払い、株主、社員に報いることが経営者としての勤めだ」と割り切って、天命に直面することを放棄してしまうのである。 このような段階では、経営者は、一見悩んでいないように見える。しかし、その人の天命に関することに触れられると、話題から逃れようとする。 第二段階 「嘆く」 第二段階の心の天命との関わり方は、「嘆く」だ。 天命に直面すると、あまりの厳しさに「とてもできない」と悲鳴をあげることになる。内省力の強い人ほど、まじめな人ほど、その嘆きは大きく悲鳴にも似たものになる。 「どうして私だけこんな目に会うのか」。「ああ、早く仕事を辞めたい」。「リタイヤして田舎でゆっくりしたいよ」。「これが天命ならあんまりだよ。私にはとてもできない」。自分の置かれている状況、つまり自分の天命に圧倒され、それを素直に受け入れるのではなく、あたかも悲鳴をあげているように嘆くのだ。 第三段階 「畏れる」 第三段階の心の天命との関わり方は、「畏れる」だ。 この段階では、だんだん「嘆き」や「悲鳴」は少なくなり、自分の天命に関することは、ほとんど口にしなくなる。 ある経営者は、米国に30年以上も在住し、日本と米国を行き来しながら、日本から伝統の高級織物の輸入をしてきた。「日本と米国の架け橋となって、日本の伝統文化を米国に伝播したいのですか」と私は尋ねた。 「そんな、おこがましいこと、とてもできませんよ。でもやるしかないです。私は確かにそれをやろうとしてきたが、できてこなかった。だから、とても天命などとは言うことはできません。でもこれからもやっていくのでしょうね」と、否定しているのか受け入れているのかわからない返答を真顔でする。 これは、謙遜しているのではなく、天命を受け入れることを畏れているのだ。 さらに、問うていくと、「日米の架け橋とか、日本文化を伝えるなど、そんな畏れ多いこと、私にはできませんよ。大畏れたことです」という言葉を発する。遂に、最後には、「私は、どんなに事業が苦しくなっても、これだけは止めるわけにはいかない」と、本当に蚊の啼くような声だが、覚悟の溢れた言葉が返ってきた。 人に「畏れ多い」、「大畏れた」とか「おこがましい」、「とてもできないがやり続ける」といった言葉が出てきたら、それは、天命の領域に触れていると観てほしい。 第四段階 「志す」 第四の段階における心の天命に対する関わり方は、「志す」だ。 自分の人生を振り返り、その中に、一貫した不動のものを見出すことで、人生の統合ができる。「自分は、過去にずっと一貫してこのことをやってきた。未来もこのことをやっていくことは明らかだ」という段階に達したとき、それに、志すことができる。 図1を見てほしい。 |
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| 心の天命との関わり方の「逃げる」、「嘆く」、「畏れる」という各段階を示している。最初は、「逃げる」、次には「嘆く」、そして「畏れる」という段階になり、各段階を行き来しながら、次第に「志す」状態になっていく。遂には、自分の人生で一貫することを、自分の天命だと確信を持つようになり、「志す」段階に到達するようになる。 この天命に志す段階は、一度到達すればそれで終わりというものではない。次のレベルが存在し、また、新しい第一段階の「逃げる」から始まるように思える。つまり、この4段階のプロセスを繰り返しながら、らせん状に高次のレベルに至るのかもしれない。 楽天という段階 私たちは、自分の人生を統合する前は、両親によって、「この世に投げ込まれた」状態と言える。自分の生まれ育った環境のせいで、自分の過去を否定的に見ているとするなら、真の意味で人生に責任をとって生きていないと言える。 しかし、あなたが自分の生まれ育った環境を言い訳にして否定的に見ている事柄を、肯定的に捉え、そこから一貫したものを導くことができるなら、自身の天命が見えてくるだろう。つまり、人生を自ら肯定し統合していく過程で、次第に、自分の意志ではない「投げ込まれた世界」の中に、自分の意志で、自分を「投げ込む」という人生の質的転換が行われる。 これこそが、生まれ育った環境や先祖、両親に与えられた「宿命」を自分の意志で、「運命」に転換する瞬間とも言える。まさしくドイツの哲人ハイデッガー流に言えば、「投げ込まれた世界に自分を投げ込む」という「投企」(とうき)を、この人生の統合によって行うことができる。 つまり、自分の人生を、自分自身に取り戻すことができる。仏教的に言えば、大きな「絶対他力」の中に、「自力」が生まれるのだ。 父親のスパルタ教育と母親に対する暴言に反発し、二度と戻らないと家を出た男が、父親の急死で、教育会社を継ぐことになった。その後、経営者として経験を積み、絶対に許せないと否定していた父親から、「真の国際人を育てる」という志を継いでいることを自分の中に発見した。 その瞬間に、これまでの父への恨みや、家を出ることで経験した様々な苦難も、すべて、今の自分に必要であったと受け入れることができた。そして、それらの経験は、親に対する溢れんばかりの感謝として現れ、今では、すばらしい経営者となっている。 このような事例を見るまでもなく、私たちは、人生を心に翻弄される構造の中で生きてきた。しかし、それは、私たちの心が天命との関わり方を進化させる プロセスだと観ることができる。様々な経験から心が鍛えられ、そのベクトルが 次第に天命に近づき、天命の存する魂との調和ができあがる。 この魂心一致のプロセスを示したのが図2だ。
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図2. 魂心一致のプロセス
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私は、これまで不思議なことを観察してきた。自分の人生を統合し天命に志すようになった人は、顔だけでなく、立ち姿までも美しくなる。あたかも「天から一本の柱が頭からつま先に貫かれたかのように」だ。さまざまな経験や出会いのひとつひとつを自分の人生に統合していく過程で、この美的変化が現れてくるのだ。 人生の統合ができればできるほど、過去のさまざまな悲しみや苦しみ、まさに「業」(ごう)とも言える人生の引っ掛かりが消える。さらに、外見が全く変わって しまう程、すてきな顔と姿に変貌してしまう。これまで、私は、そのような光景を 何人も見てきた。 このような場面に立ち会えるのは、とても光栄で、神聖な機会だ。あなたが、天命を経営に生かす中で、社員や友人との関係を通じて、このような人たちを 輩出することができたらどうだろうか。 自分の人生にある否定や嘆きに、正面から向かい合うことは、易しいことではない。できることなら、過去は全く白紙にして、新たに人生を創作できたら良いと思うかもしれない。実際に、このような成功哲学が多く存在することも事実だ。 しかし、天命は人生の否定や嘆きの中に封じ込められているのだ。人生の 究極のエネルギーの源泉は、非直感的な、思いもよらない形で存在している。 私の馬鹿な体験から、その感を掴んでほしい。 昨年の冬、私は生まれて初めてスキーをした。家族が行くというので、怪我をすることも頭をよぎったが、仕方なく北海道に行くことにしたのだ。家族は、中級や上級の腕前だが、私は、スキースクールの入門コースに混じった。 入門コースにも関わらず、滑れと言われた斜面は、私には直角にも見える恐ろしいものだった。しかもコーチは、「体重を前にかけろ」というのだ。私は、直感的に、「これは危ない」と思った。前に体重をかければ、頭から真っ逆さまに谷底に落ちるではないか。 このとき、コーチの話を理屈では理解するものの、「恐ろしくてできない」と私の心が嘆いた。直感力のある私は指導に反し、当然、体重を後ろにかけた。するとどうだろう。思い切り転んでしまった。その後、何度も何度も転んでしまったのだ。 もう絶望的だった。 遂に、わたしは、コーチの言うことを聞くことにした。恐れを振り払い、もう谷底に落ちてもいいという覚悟をして、体重を前方にかけると、私のスキーは滑らかに滑り出した。直角にも思えた斜面は、なだらかだった。風を切りながら観たものは、一面の輝く銀世界だった。 スポーツの世界にはコーチがいる。しかし、あなたの人生にはコーチはいない。自分の天命に直面し志すプロセスは、生易しくは無いし、畏しくもある。しかも嘆き、怒り、不安の中に顔を突っ込むのは、直感に反するかもしれない。 しかし、人生の宝は苦難の中にあるのだ。あなたが、勇気を持って自分の 人生に直面し、心を鍛え天命に志すなら、自分の運命は力強く好転し、輝く世界が待っているだろう。 別の表現をすれば、このような経営者の人生には、天命・天職を楽しむという、本物の「楽天」の世界が待っている。人生には良いときもあれば、苦境のときもある。どのような環境であろうと、楽天的に生きることができたらどうだろうか。 さらに、あなたの経営幹部や社員も天命に志し、その志を共有できる生涯の氣脈を創ることができたらどうだろうか?一旦、志しても、また振れることが人生でしばしば起こる。そのような時に、志を共有するこの氣脈は、あなたの振れを指摘し、元に戻させてくれるだろう。 相手の顔色ばかりを気にしても、何度朝まで飲んでも、本当の人間関係はできない。 お互いの志を共有し、お互いのすばらしさを知っている関係こそが、企業に活力を生み、一人ひとりの人生に達成と満足を導いていく。 私たちは、ただ、成功すると思うからやるのではなく、成功しないと思うからやらないのでもない。自分の天命を覚悟し、やると志したからやるのだ。 天命という「目に見えない巨象」を探す探検を、あなたと共に、18の質問を自分自身にすることで、行ってきた。天命の様々な部位を見て、天命が封じ込められている構造が見えてきた。 既に知られていて、あたかも常識になっていることの中に、大きな落とし穴が待っている。天命を経営に生かすという視点から探求を行ってきたが、これは、経営者だけのことではなく人生のことだということをあなたも気づいているだろう。 現代社会に、大きな進歩と豊かさをもたらした原動力が、着々と進む地球環境の破壊やいまや3万人を超える自殺者を生む構造を造っている。 私たちにとって最も大切なことは、私たち自らが何をしようとしているのかを俯瞰(ふかん)し、それを修正する行動ができる新しい枠組みだ。それが、自分の世界の当事者でありながら、自分の世界と人の世界を俯瞰(ふかん)する「離見の見」だ。 長い間、「天命と経営」を読んで頂きました。これで、筆を置きたいと思います。 ありがとうございました。 最後に、最も私たちに必要とされている「離見の見」を磨きあげるために、番外編として、天命に関するいくつかのトピックを取り上げ、皆さんにお話したいと思います。 出口 光 |
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※出口光氏に質問のある方は、なんでも結構ですので下記にお寄せください。
SAKAGAMI@jmca.net |
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