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出口光の「天命と経営」19

総集編:天命は封じ込められている

 いよいよ「天命と経営」も完了に近づいてきた。

 現代は心の時代と言われている。私は、その「心」と漠然と言われる分野にも、心と魂の区別をしてきた。天命は心の分野にあるのではなく、魂の分野にあるものとして扱うことが大切なのだ。

 なぜなら不思議にも、天命は心のバリアによって、自分自身の中に、封じ込められていると観ているからだ。

 あなたの天命は、心の奥底に秘され、しかもあなたの人生に一貫して強い影響を与え続けている。どうすれば、自分の天命を自覚し、それを経営に、人生に活かすことができるのだろうか。

 友人の紹介で、私は大阪で飲食店チェーンを経営している若者と会った。不良だったその経営者にも人との出会いがあり、今は更正して一生懸命仕事をしている。社員も“半端者”を雇い、鍛え上げ育てている。そんな彼に、ぜひ天命の話をしてほしいという依頼があったからだ。

 私は大阪の道頓堀にあるその経営者の店に入った途端、実に清潔に掃除されていること、さらに、従業員の接客に「暖かさ」があることがわかった。

 その店の4階で、私たちは話をした。

 「私のヴィジョンは、45歳でセミリタイヤしてニュージーランドでゆっくり暮らすことです」とその経営者は言った。私は、「それは本当かな。実際にやりたいことではないのではないか。そんなことなら、今すぐにでも行けるじゃないか」と言った。

 「本当ですよ。本当に行きたいのです。でも今は、お金が無くて行けません。先日も、従業員に子供が生まれて、給料も上げてやらなくてはいけないし」。

 私は、「もし、本当に、ニュージーランドに行くのがヴィジョンなら、いますぐに行けるよね。お金がない人でも、多くの人たちが行って暮らしているよ」と言った。

 「なるほど。確かにそうですね。今すぐ行こうと思えばいけます。でも実際は、多くの従業員を抱えているので、なかなか難しい」。

 このようなやり取りの中で、彼の過去には良い出会いがあって、その人たちに育てられてきたことがわかった。そして、更生してからは、彼の言う“半端者”を集め、愛情を持って叩き上げ育ててきたのだ。

 彼の人生を統合的に観てみると、「育てる」という一本の柱が、私の脳裏に 浮かんできた。さまざまな苦難はそのためにあったとさえ思えるのだ。

 「本当は、人を一人前に育てて、幸せにしたいのではないのか?もしそうで  なかったら、あんなに従業員の接客にハートがあるはずがないし、店がこんなに綺麗に掃除され、磨き上げられているはずがない」と私は言った。

 彼は一瞬、嬉しそうにした。

 「いや、育てようと思っているのですが、なかなか満足のいくように育てることができないんです。人を育てるのは難しいです。それに、これから従業員が結婚して子供がどんどん生まれてくる。給料を上げてやりたいじゃないですか。だけど、事業が大きくなればなるほど、従業員が増えて、そんなことなかなか難しい。出口さん、そう思いませんか?私には、とても人を育てて幸せにすることなんてできませんよ」と真剣に言うのだ。

 「不良上がりの青年たちを鍛えて、一人前に育ててきた。それが本当にやりたいことなんだよね」と私は言った。

 「こんな半端者の私にも出会いがあって、その人たちに育てられたんです。  でも自分には、とても人を育てるなんて畏れ多いことはできない。こんなこと天命とは思えないですよ。だから、ほんとうに45歳になったら、セミリタイヤしてニュージーランドで暮らしたいのです」。

 これは、自分の天命に課する基準があまりに高く、そこからくる「嘆き」なのだ(第5話参照)。嘆きの対象である「人を育て幸せにする」ことが、自分の天命と密接な関係があるとは、気づかないだけではなく、とても容認できないのだ。

 このように人の事例を扱うことで、あなたもそれを冷静に俯瞰(ふかん)することができるだろう。人はどの分野でも嘆くのではなく、その人固有の分野で嘆いているのだ。私は、歌が下手だが、「歌がうまくない」ことには嘆かないのだ。なぜなら歌手になるつもりもなければ、うまくなることに何の覚悟もないからだ。

 嘆きは、天命を指し示すポインターだ。自分の人生に嘆きをもたらすのは、 自分が人生で求めて止まないものだ。嘆きこそ、あなたの天命を導く重要な指標だということが見えてくる。

 あなたの嘆きの分野は何だろうか?

 自分の心を観察し、その奥底にあるものを観てほしい。それは、心の嘆きが指し示す魂の声、つまり、天命を聴くことにある。

 「自分に嘆きなどない」と言わないでほしい。嘆きは巧妙に形を変えてあなたに出てくるのだ。天命に対する悲鳴は、諦め、怒り、不安といった形でも現れる。

 例を挙げてみよう。

 「私は人生で一貫して人の役に立ちたいと思ってきたが、やはり、人の役に立ててこなかった。でもそれは嘆いているのではなく、諦めているのです。言わば、諦観(ていかん)です」。

 これは、嘆きによる感情の起伏を抑え、天命から逃げているのだ。

 「相手のためにこれだけ何かをしてあげようと想っているのに、相手は理解してくれない。嘆きなどではなく、私は、相手に怒っているのです」。

 これは、感情を自分に向けるのではなく、相手に向けているのだ。

 これらの例は、嘆きが形を変えて表出しているものだと言える。

 下図をみてほしい。

 「嘆き、怒り、不安」が指し示すものこそが、あなたの天命の領域なのだ。

 

 

 しかし、これらの心情はマイナス思考であり、これらを人前で表現することは、現代社会では、善くないこととされる。さらには、自分自身でも「とてもこれが自分の人生でやるべきこととは思えない」と否定してしまうのだ。

 恐るべきことに、こうして人は天命の分野でないことに、自分のやりたいことを見出そうとするのだ。

 前述の経営者のように、人生で一貫してやってきたことを否定し、「セミリタイヤして、 ニュージーランドに行くのがヴィジョンだ」と言う。本気で、これを生涯かけて実現する気などないから、深く考えもせず、当然、嘆きも存在しない。

 この他にも、「月旅行に行くことだ」、「将来、財団を作って寄付をしたい」、  「南の島で暮らしたい」などと、言う人たちも出てくる。

 あなたも少し想像してみてほしい。これらを考えることは心地よいことではないか?そして、なんとポジテイヴ思考になることだろう。

 また、成功した多くの経営者が、「楽しくワクワクすることを人生でやるべきだ」という意味のことを公言している。

 高い境地に達した人たちが、ワクワクする楽しいことをしているというのは本当だろう。事を成した人たちは、皆もそうなってほしいと願う。そして、自分の到達 した境地を語る。だから、「わくわく、楽しくやる必要がある」と情熱的に説くようになるのだ。

 しかし、これを「嘆き」に翻弄(ほんろう)されている経営者が、文字通り受け取ってしまうと、「今やっていることは、辛く苦しいことだから、他に本当にやるべきワクワクすることがあるはずだ」ということになってしまう。怖しいことに、嘆き自体が好ましいことではないと自動的に思ってしまう構造が存在しているのだ。

 嘆きや苦しみを否定することで、それが指し示す根源的なことから遠ざかる。苦しいことや嘆いていることから目を背け、それらを否定し、わくわく楽しいことを追求しようとする。だから、天命は、一層、心の奥深くに封じ込められてしまう。

 なぜ世の中は、このように天命を押し込める構造になっているのか!

 もう少し簡単にわかってもよいではないか。この困難さは経営者にとって、いや、人間にとって、ゆゆしきことではないか。

 これは、私自身に繰り返し出てくる「嘆き」なのだ。

 私は、人間の直面する課題を乗り越えようと志し、無謀にも、実際的なインフラやテクノロジーの開発に取り組んできた。しかも、これは私にとっては、口に出すことすら畏れ多く思うことなのだ。

 成功した経営者にも、人生で嘆きの時代が長期間あったはずだ。その苦しみの中から、経営者は、次第に天命に志すようになり、不動の魂の分野に到達したのだ。だからこそ、そこに本当のワクワクさ、楽しさがあるのではないか。「天命を楽しんで生きる」という「楽天」が現われたのだ。

 人間にとっての幸せは、「本来やるべきこと」に嘆きを超えて志し、それを実現することではないだろうか。

 人は天命に直面して覚悟することで、自分の感情に次第に振り回されないようになる。これは、心が邪魔な存在であるとか、大切でないと言っているのではないのだ。

 では、なぜ心が、あるいは社会構造が、天命を封じ込める機能を担っているのだろうか。

 次回は最終回だ。天命と経営を締めくくるために、この天命と心との深遠な 関係を探求することで、筆を置きたい。

出口 光

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