もし天命とも呼べるものが、あなたの「人生の支柱」となるならば、心の動きに惑わされたりしない、「揺ぎのなさ」があなたの人生に顕れてくるだろう。
そして、あなたの事業は、次第に独自性を帯び、社会に無くてはならないものとなるはずだ。それこそが、あなたの天命の表現としての経営と言えるだろう。
前回の特殊な問いは、「あなたが人生で嫌だいやだと言いながらも続けてきたことは何か?」だった。それは、見つかっただろうか。
もし答えが、ノーならば、ぜひ第四号に戻ってほしい。あなたの人生の中にも必ず見つかるからだ。イエスならば、次の特殊な質問に移ろう。
自分の人生の中で、どうして嫌だいやだと言いながら、あなたは、その行動を続けるのか? これは、奇妙ではないか。
天命という漢字を広辞苑で調べてみると、文字通り、「天の命令」だ。天はさておき、天命を構成する「命」という漢字を分解してみよう。
命は、「人」、「一」、「叩」という3つの要素から成り立っている。つまり、「人を一番叩くもの」ということになる。つまり、天命は、天が人を一番叩くものということになる。
「命」とは、「いのち」のことであり、人間にとって最も大切なものだと言われてきた。そうだとしたら、人を一番叩くものが、最も大切なものということになる。
これは、象徴的な意味を持っている。つまり、人は、天命に叩かれ悲鳴をあげているのだ。
さらに理解をするために、実証的に2つの例をあげてみよう。これは、机上の空論ではないからだ。
ナイチンゲールに憧れてOLを辞め、看護師学校に入り直し、その後15年間、看護師を続けている女性がいる。
彼女が私に、「私は、人間を愛することができないのです。毎日、不治の病で死にゆく人たちのケアをしていながら、患者さんを愛することができないのです。私には、看護師は向いていないと思います。やっていく自信がありません」と涙ながらに言うのだ。
彼女に愛情がないのではない。むしろ、筋金入りの愛情あふれる人なのだ。しかし、ナイチンゲールを目指し、そのナイチンゲールが持っていたであろう愛の基準を自らに課しているために、そのギャップに苦しんでいるのだ。
「死を迎えようとしている人たちを愛で癒す」という途方もない人生の志を持ったその看護師は、自分の愛情が足らないと実際に苦しんでいるのだ。
つまり、彼女は、自分の天命に悲鳴を上げているとも言える。
もし、成し遂げるにはあまりに困難な基準を、自分に課すことがなかったなら、いや課されることがなかったなら、そんなに苦しむことはないのだ。
次は、西郷隆盛の例だ。
明治維新の功労者、西郷隆盛は、「人を相手にせず、天を相手にすべし」という言葉を残した。これは、「天を敬い、人を愛す」という言葉と共に、さまざまな本や雑誌で引用されている。
しかし、その後に来る「己の誠の足らざるを常に反省すべし」という言葉は、ほとんど引用されていない。
自分の誠が足らないのを常に反省するべきだと西郷自身に言っているのだ。誠の塊のような西郷隆盛が言うのだから、謙遜と受け取られ、引用されてこなかったのだろう。
しかし、私は、西郷隆盛は、実際には「自分には誠が足らない」と嘆いていたと確信している。それは、西郷隆盛が天を相手にしていたからだ。
つまり、天の誠を基準とするなら、西郷が自分は誠が足らないと言ったとしても頷ける。
この言葉から、回天の大事業をやる過程で、西郷が常に自分の誠実さと格闘していたことが推察される。事実、西郷は多くの漢詩を残し、初期の頃には、自分の境遇を嘆き、実際に天に対する悲鳴にも似た漢詩を詠んでいる。
この図2を見てみよう。自分に課す基準が低いひとは、バーも簡単に超えられるし苦しみも少ないだろう。